ふれる3

「ふれる」というのは、何かと自分との接点のことだ。
それは以前書いたように言葉も同じものだ。
そして、「ふれる」は「ふれられる」と対である。
往々にして「ふれる」為の方法を展開しているが、「ふれられる」側は殆ど展開されていない。
それはどうして?
そこが展開されていないから、表情筋をどう使うか、というような非常に不自然で気持ちの悪い笑顔や
「いらっしゃいま・・・・」
という、尻切れトンボで噴出してしまいそうになる音が巷に溢れるのだ。
そこにはなる程という理屈はあるだろうが、それはあくまでも「ふれる側」からの一方通行であり、そこからみた「ふれられる側」の心理だ。
つまり、嘘だ。
もちろん、それを使っている百貨店の売り場の人達に罪は無い。
そんな研修を受けさせている会社に責任がある。
どうして、あの気持ちの悪い声や引きつった作り笑顔を、客が喜ぶと思えるのか。
どんなセールストークに引っ掛かっているのか不思議でならない。
接遇研修やコミュニケーション研修を行う側に、本当の意味で人と対して関われる人を見た事がない。
自社のシステムとしてのコミュニケーションはなる程達人だ。
しかし、それは全く意味が無い。
気持ちの悪いものでしかないからだ。
つまり、それを気持ちが悪いと感じられる感性を持ち合わせていない人が、そんな研修を行っているということだ。
臭い芝居を強いられているのと同じだ。
一般論として「ふれる」という行為自体は、人と人を温かくさせる。
しかし、実際はそこには一般論は存在しない。
全ては個と個の関係だからだ。
だから、ふれ合うことで病気になる人もいるだろうし、逆に病気が治る人もいるだろうし、怒りを覚える人もいるだろう、悲しみを覚える人も、喜びを得る人もいる。
それも相互の関係における化学変化だから、どちらがどうとは言えないのだ。
ワークショップの「表現塾」は、ここのところを突っ込んで学習する。
相手に「ふれる」相手との接点の稽古だ。
4月20日からの京都ワークショップ
「身体と向かい合う3日間」のお知らせ
https://www.hino-budo.com/2012-KYOTOWS.htm

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