感情豊かに
生きているのか死んでいるのか分からない人。
それは、感情の無い人、感情の薄い人のことだ。
何をしていても感情が動かない人だ。
感情が希薄、あるいは無いというのは、感情が湧き上がる対象が無いということだ。
つまり、それは他人であっても、親であっても子供であっても、物であっても、映画、芝居、歌。
とにかく自分以外のあらゆるモノに対して、何もこころが動かないということだ。
それって人か?
理屈や評論的な言葉はドンドン出てくるが、一切感情が表れてこない。
社会や人間関係、あらゆる物事をくだらない屁理屈だけで生きている人のことだ。
そんな人が多い。
そこには年齢も性の違いも無い。
もちろん、そのことは当人には分からない。
何故なら、自分に対して関ってくる他人がいないのだから。
それは無視をしているのではない。
無視というのは、意識的な行為だ。
だからまだ他人という存在はある。
しかし、ここで言う感情の無い人というのは、他人が無いのだ。
かなり前、感情的になるのは悪い事、あるいは、程度の低いことと言われていた。
その教育が、ここに来て開花している感じだ。
感情的になるな、というのは、人よりも感情があふれ出る人に対する言葉であって、全ての人に対する言葉ではない。
そんな感情の無い人でも、舞台をやりたいというから話が難しい。
芝居であろうがダンスや音楽であろうが、そこには感情という関係性の代名詞のようなものが必要だ。
自分を評論したり、説明したりするのは得意だが、自分に対しても感情が沸き起こってこない。
感情というのは、まさしく今生きているという証の一つなのだが…。
ワークショップでは「表現塾」というクラスがある。
そこでは、人と正面から向き合う。
その時に、色々な意味で感情が動く「筈」なのだ。
喜びや驚きだ。
その事が「向かい合う」を成立させる。
そしてそれは身体に刻み込まれていく。
決して意識が作り出す、理屈や評論、説明が作り出すのではない。
それでは身体に何も痕跡が残らない。
4月20日からの京都ワークショップ
「身体と向き合う3日間」のお知らせ
https://www.hino-budo.com/2012-KYOTOWS.htm