京都のワークショップ

先日、ある大学の教職課程の生徒達にワークショップを開いたことを書いた。
その時、私を呼んでくれた先生が
「日野先生のワークショップを始めて受けた時、何これ?と思ったのですよ。私も仕事柄もあり、色々なワークを受けて来ましたが、どれもこれも『出来た気になる』ワークで、『出来ない』というものは何もありませんでした」そうなのだ。
どんなワークショップでも、最終的には「それで良いですよ」でまとまっている。
「それで良いです」で、何がどうなったのか?
それでは感動提供思いで作り産業だ。
決して、受講者にとって本当の意味での新しい体験も実感も得られない。
しかし、上っ面の浅いレベルでの感動だけは得られる。
そういう類のものがワークショップとしてまかり通っているのだ。
もちろん、それは外国だって同じだ。
いわば、暇な人が一寸のぞいて満足する、街のカルチャーセンターのノリだ。
私のワークは、自分と自分の身体との勝負のようなものだ。
自分と、というのは、ある特定の運動に対して、運動を指令する自分。
そして、指令されて動いた身体を感覚という刺激感知システムをフルに働かせ、それを認知する。
という自分の中での神経的運動だからだ。
だから、単に指定された動きが出来る、ということが目的なのではない。
運動など出来なくても良いのだ。
運動が起こったことで起こった刺激を感じ取ったり、刺激がある身体を緩めること、あるいは、解放していくことで動いてしまうことが目的だ。
だから、従来の運動に対する認識、あるいは、動きに対する認識では対処できないのだ。
だから「出来ないワーク」ということになるのだ。
しかし、従来の運動に対する認識で出来るものであれば、その運動の形がいくら変わろうが、何一つ変わっていないし、新しいこと、あるいは、進化したことではない。
それであれば、ワークを受ける必要などどこにも無いのだ。
だが、そこには理論という、無理やり作り上げた理屈がある。
人はその理屈と、少しの感動とに惑わされる。
だから、身体に痕跡が何も残らず、頭にだけその理屈が思い出として残っているだけになるのだ。
4月20日からの京都ワークショップ
「身体と向き合う3日間」のお知らせ
https://www.hino-budo.com/2012-KYOTOWS.htm

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