稽古の仕方を考える

どんなことでも同じだが、稽古の仕方を考える事が、そして編み出して行く事が稽古である。
同じ事を10年繰り返しても、30年繰り返しても上達などしないし、そんなことは有り得ない。
しかし、その繰り返しは自分自身の意識や自我の欲求を満たしているし、稽古に慣れているので、上達していないとは思えない。
何時も書く通り、頭は満足しているからだ。
その場合、幻の「何か」を求めているだけなので間違ってはいない。
所詮幻なのだからだ。
例えば、武道の要素としてある「体重の移動」という技術。
これは幻ではない。
この技術を身につけようとすれば、相当稽古の仕方を考えなければならない。
一つの表れとしての形があるとする。
その形が出来れば体重の移動の一つは出来ている。
しかし、それはあくまでもその形があるから、その要素が明確化されているからにほかならない。
だから、そこで出来た「体重の移動」を他の色々な形で試す必要がある。
そうなると、そもそも「体重の移動とは何か」ということを考えなければならない。
そして、体重を移動させる自分自身の身体をより詳しく吟味する必要が出て来る。
そして、相手との関係はどうなっているのかも吟味しなければならない。
そんなことを考えることが、稽古を考えていく、ということだ。
外国でワークショップを開いたおかげで、そういった事を全く知らない人ばかりだということを知った。
「肘を操れる、というだけで5年はかかるよ」というような話を沢山する。
つまり、技術というのはそう容易く身に付くものではないということを言いたいのだ。
そして、それを獲得する稽古法を考え出さなければ、何時まで経っても同じ事を繰り返しているだけで、何一つ日本の武道を体感出来ないのだとも話す。
外国の人にすれば「???」だ。
現に道着を着け、あるいは、袴を着け、何がしかの段位を持っているのだから。
しかし、技術だからこそ、現在の自分の頭の中の世界では考え出せない事が出来るのだ。
ということがまるで頭には無い、という自分に気付かなければ永久に前に進まない。
4月20日からの京都ワークショップのお知らせ
https://www.hino-budo.com/2012-KYOTOWS.htm

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