気付くと理解の違い

京都ワークショップのチラシがやっと印刷に回った。
何もかも勘でやっていると、手間が掛かり過ぎる。
でもマニュアルを読まない。
我ながら不思議に思う。
もちろん、毎度のことだからいかに反省していないかだ。
今回は、今までとは全く違う抜け落ちがあった。
まあ、そこは覚えたから次からそこは抜け落ちないだろう。
来週末は、ある大学で教職課程の学生達にワークショップを開く事になっている。
ワークショップを開くことで、学生達が何かに気付いてくれれば良いのだが…。
特に生徒との関係性、というところに重点を置いたワークだ。
子供は動物と同じだから、人をかぎ分ける能力を持っている。
それは、自分自身が子供だった頃を思い出せば、それこそ理解出来る筈だ。
その、こと人を見抜くことに関して敏感な子供達を相手にするのだから、並々ならぬ能力が必要だ。
それには、自分自身に気付いてもらう必要がある。
しかし、企業での研修であっても、大方の受講者は「気付く」のではなく「理解しよう」とする。
だが理解をしても、それを実践に転嫁することは出来ない。
何故なら「理解した」で完結してしまうからだ。
つまり、理解してもそれを具体に置き換えなければ、実際には何も手を付けることは出来ない。
「気付き」と「理解」それは似ているようで全く異質のものだ。
気付くというのは、自分自身が既に問題を抱えているから、そこから自分自身の考え方や思っていることに対して、何かが働く、つまり、自分の内面に切り込むということだ。
しかし、理解をするというのは、自分自身の内面に、ではなく、現在の自分自身に何かをプラスするということだ。
だから、それらは全く異なるものだ。
昨日「キッカケ」ということを書いたが、それも気付きの一種だ。
現在の自分自身はそのままにして、というのが問題なのだ。
京都でのワークショップでも、ここのところのワークは「関係塾・表現塾」としてやる。
4月20日からの京都ワークショップのお知らせ
https://www.hino-budo.com/2012-KYOTOWS.htm

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