「あの頃ぼくらはアホでした」
「あの頃ぼくらはアホでした」これは東野圭吾のエッセイだ。
大阪生まれの大阪育ちの私には、ものの見事にフィットした。
そうだった。
「あの頃ぼくらはアホでした」
だったのだ。
本を手に取ると、肩が自然と揺れてきた。
笑いをこらえるのに力が入るからだ。
しかし、それも時間の問題で、一挙に声が吹き出てしまった。
作者の育った地域、中学校。
それらは、私にとって思い出深い所だったからだ。
そして書かれてあることは、ほとんどドンピシャで、思い出とリンクしたのだ。
何だかんだと言っても、あの頃はアホだった。
もちろん、今もそうだが。
かしこくなんかなりたくないのだ。
世間は小利口な人、かしこい人ばかりでうんざりする。
一つ言えば、その頃「あんた、かしこいな」といわれたら警戒する必要があった。
その言葉は、褒めているのではなく頭が硬い、性格が頑固なことを指す。
もしくは、悪知恵が働くという言葉でもあるからだ。
もちろん「こいつは底抜けのアホか」という意味でも使う。
現代のように画一化された言葉が、世に出回っていなかったので、一つ一つの言葉が、どんな状況で、誰が誰に、どんな顔色で声のトーンはどんなだった、というような状況を全部認識した上で、その言葉の意味を理解しなければならなかったのだ。
しかも瞬時にである。
もしも、そうでなければたちまち「どんくさい奴やあ」と来る。
もしくは「アホか、何にも分からんやっちゃな」と攻め立てられるのだ。
相手からの言葉に対するリアクションが生命だったのだ。
「先生がお前のこと、かしこい奴やな、と言うとったぞ」
「そうか、どんな顔しとった?」
「うん、顔は普通やったけど、なんか声は低かったと思うで」
「そうか、ほんならあれがバレたんかも分からんな」
「お前、えらいな、よう分かるな」
という具合の展開である。
「今でも僕はアホでっせ」だ。