尻尾を上げると
先日アメリカの犬のトレーナーの話を書いた。
その続きだ。極端におびえる犬がいた。
街を散歩できないのだ。
乳母車や自動車の音、ディスプレイの置物。
およそ、街にある全てに対して反応し、おびえて始末に負えない。犬は尻尾を巻いたままだ。
トレーナーが犬と共存する為の基本は、犬を人ととして扱わないこと。
運動が足りていること。
飼い主は凛としていること。
その三つを条件として上げている。
この臆病な犬の場合、まず運動が足りていないので、首にリードを付け、トレーナーはローラースケートのようなものを履き、犬に引っ張らさせた。
この犬は元々臆病だから街を駆け抜ける。
そのことで、反応している暇を作らせないのだ。
走らせた後、犬の表情を見ると、落ち着いていた。
そして、街を歩く。
もちろん尻尾は巻いたままだ。
そこでトレーナーのしたことは、何と犬の尻尾を持ち上げてやったのだ。
すると、犬は落ち着きを取り戻したのだ。
それを繰り返していると、次第にビクビクしなくなった。
トレーナー曰く、現存する犬の調教は、人間が人間の心理に当てはめて作ったものだから駄目だという。
そうではなく、犬を観察することで、犬の心理にしたがって操作すれば、躾けることなど本当に簡単だという。
尻尾を引き上げるだけで、犬は落ち着いた。
つまり、身体の特徴は心理の表れだから、その身体の特徴を変化させてやれば良いということだ。
もちろん、それは人も同じだ。
しかし、それを考えた時、どうして人は犬ほどストレートに変化しないのかに突き当たる。
それは簡単だ。
意識という代物が人にはあり、それが納得するという形式を踏まなければどうにもならないのだ。
しかし、ここには矛盾がある。
納得するということは、従来の自分なのだから、変化などする筈も無いのだ。
この犬のように、ビクビクしたら尻尾を上げる。
それは胸骨を上げるのと同じだ。
そのことで、いくら気分が良くなっても、意識が納得していない。
そこで意識がなっとくするように、様々な言葉を繰り出す。
結果納得したとする。
しかし、これが先ほどのことで、気分がよくなったという体験をインプットするのではなく、納得をインプットする。
納得は変化前の自分が納得しているだけなのだということが分からない。
だから、三日坊主で基に戻るということだ。
気分が良い体験を基準に納得を組みかえるという作業が必要なのだが、それはしない。
変化を止めさせるやっかいなものは意識なのだ。しかも自分の。