看る目
「看る目」はどう養われるのか。
骨董品を見分ける目は、その道の人以外には分からない。
その道の人は、とにかく良い品を沢山見ることだと言う。
大手の真珠メーカーでの新入社員研修では、最高の品質の真珠を沢山見せるそうだ。
結局のところそれしかないだろうと思う。
言葉に出来ないものを看る。
もちろん、ある程度までは言葉に出来る。
しかし、それも言葉であって実際ではない。
最高の真珠を見せられ、「この光沢が違うでしょう」と言われたとしよう。
しかし「光沢」がどれ程のものか、悪い真珠がどれ程のもの、最高に似せたものがどれ程のものか知らないのだから、何も分からないのが実際だ。
しかし、大方は言葉を聞いて「そうか」と思う。
もちろん、私は分からないから分からないというし、これかな、と思ったとしても「分からない」とする。
分かる人にしか分からないのだ。
また、分かる人のレベルによって、同じ分かるでも全く違うことを分かっている場合もある。
そこに共通の言葉があった時、誤解が生まれるしその誤解にも気付かないことがある。
そこをどう確かめるのか、そんな能力が必要なのだ。
こんなところが、看る目が出来るのか出来ないのかの分かれ道なのではないかと思う。
しかし、これらは客観的な看るであり、それを自分の身体に置き換えることではない。
もちろん、自分の身体に置き換えることが出来るのは、看る目があるからだ。
逆に言えば、身体感覚が培われているから、それを使って看るということが出来るのだ。
自分自身の身体感覚と比例するのが看る目だ。