言葉は灯台のようなもの

武道で最も難しいのは感覚だ。
大阪教室で大笑いしたことがあった。
「こんな感じ」「こうですか」「ちゃうちゃうこうや」「そうやないこうや」「それはこうしてるんや」とにかく「こう」という言葉だけで数分。
「ここは老人の教室か」
で大爆笑。
「あれ・これ・それ・こう」
現場にいない人には何のことやら分からない言葉のオンパレードだからだ。
つまり、自分はどれくらいの力を相手に入れているのか。
捻じれている感覚とはいかなるものか。
そんなことは、何一つ見えない。
ただ、そこで起こる現象だけが頼りになる。
そうなると「看る目」だけが正解への道を開いてくれるということになる。
現場の人にしか分からないこと、実はそれが一番良い。
でなければ言葉だけを独り歩きさせ、言葉をこねくり回すだけで分かった風なことを話す人が多いからだ。
私は人の話を聞くとき、絶対にその話す人を検証する。
話題を変え、どの程度の深さなのかを探るのだ。
でなければ、どの深さの言葉を話しているか分からないからだ。
例えば、「腰が据わる」と言う言葉を武道歴1年の人と30年の人と使った場合では、その中身が違う。
もちろん、キャリアが長いからといって、その言葉が深いとは限らない。
実際の動きを見ることが出来るなら話は別だが、そうではない時は、話題を自分が良く理解出来ることに変えて探るしかないのだ。
ある意味で言葉はいらない。
言葉があるから間違っていくことが多々あるからだ。
言葉を理解出来るから、出来た気になってしまうこともあるからだ。
先日ストックホルムでは
「言葉は灯台のようなものだと理解しておくこと」
と話した。

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