情熱が凌駕する

昨日の深夜シルビー・ギエムのドキュメンタリーのような番組をやっていた。
ボレロや新作のリハーサル風景だった。
新作は、ギエム自身が日本を好きな事もあり、「日本的」なエッセンスを入れたい、とコメントがあった。
番組が進むと面白いシーンがあった。
着物を着て刀や棒を振り回す。
扇を使う。
そうかやはり外国の人が日本的なエッセンスと言えば、その形になるのか。
ギエムと言えど、こういう手の付け方をするのか、と納得もしたが驚きもした。
日本で踊ったボレロが少し流れた。
形式と情熱という構造が有り、形式を情熱が上回った時、そこに感動が生まれる。
プロは往々にして技術を優先させる。
そこを常に警戒していなければいけない。
と指揮者の小澤征爾が、復帰後話していた。
残念ながら、技術を凌駕する情熱はギエムにはなかった。
そこで考えた。
そもそも小澤征爾が語って様な事を、ギエムは自覚していたのかと。
情熱溢れている時期。
きっとそれを旬というのだろう。
つまり、無意識的に情熱が溢れ技術を超えていた時期のことだ。
まだその音を使うのか、という程聞き飽きたヨーロッパの音。
情熱が技術を超え続けるというのは、並大抵の事ではないと、改めて感じた。

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