言葉では身体を語れない

武道での稽古は、身体を操作することと、身体を操作しないという操作をすること。
大きく分けるとこの二つがあり、それが混在している。
それは、稽古としては分ける事ができるが、実際としては分ける事は出来ない。
それは、あらゆる表現形式にも当てはまる。
ダンスも芝居も、ということだ。
昨日、今日と、NDTのダンサーが受講していた。
何か身体的な事を指摘すると、例えば、僧帽筋が○○、とか、広背筋が△△という。
もちろん、それはある部分正しい。
しかし、実際にはそうではない。
たとえその部分の事であっても、それだけが原因や結果ではないからだ。
つまり、身体は、分析可能な言葉だけで、出来上がっているのではないからだ。
むしろ、分析不可能なもの、言葉化不可能なことで出来上がっている。
しかし、人は、僧帽筋を○○と言えば、分かった気になり安心する。
どうして頭を満足させるだけで、安心出来るのか私には分からない。
出来なければ意味が無い。
というのが、私だからだ。
どうも身体を動かす大方の人は、身体を満足させるのではなく、頭を満足させれば嬉しいようだ。
そうなると、身体を操作しないですることが、全く理解不能になる。
「感じる」ということが良い例だ。
本当に感じている人もいるだろうが、大方は「感じる」と「思っている」だけだ。
それも頭を喜ばせているだけなのだが。
9月の東京ワークショップは基本からみっちりいきます。
https://www.hino-budo.com/2011Tokyo-WS.htm

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