コンテンポラリーダンス?

昔、私の友人のピアノ弾きが、トラで河内音頭の伴奏を頼まれた時期があった。
私は河内音頭と言えば、昔の鉄砲光三郎さんくらいしか知らなかったが、色々あるという。
それぞれの違いは、節回しが少し違うらしい。
もちろん、その違う節回し、つまり、ニュアンスの違いがそれぞれの生命線的価値なのだ。
その世界の人、その世界のファンであれば、節回しの違いにうっとりしたり、逆に「やっぱり○がいいわ」となるのだろう。
しかし、全くそれを知らない人にとっては、よく分からない。
「あんまり変わらないけど、そんなに違うの、だからどうなの」ということになる。
私自身もそれを聞いて、へえ~そんなものなのか、と思ったことがある。
それぞれの世界の中には、そういった微妙な違いを「明らかな違い」だとして、それぞれに付加価値を作り出している。
もちろん、それは間違ったことではない。
その世界ではそのことが存在理由になるからだ。
同じような事がダンスの世界にもある。
特にコンテンポラリーダンスの世界には「変わった動き」という価値観があるようだ。
その変わった動きというのは、ヨーロッパではクラシックバレエが、ダンスの基礎や基本になっているが、話を簡略すると、そのバレエ以外の動きが高じて「変わった動き」という事になっているのだ。
しかし、変わった動き、そのものが目的になった時、それはダンスと呼べるものなのか、という大問題が浮かび上がってくる。
ヨーロッパでは、コンテンポラリーダンスというのは、ダンスという括りではなくパフォーマンスという括りになりつつあるという。
それはそうだろうと思う。
「変わった動き」を目的とした時、それこそ変わった動きコンテストのような様相を呈してくる。
だから、一挙にアカデミックなダンス(この場合はバレエ)界以外の人達がなだれ込んでくる。
それが極端化すると、昨日まで事務の仕事をしていた人、絵を描いていた人、全く芸術とは無関係の人。
とにかく多種多様な人達がその世界になだれ込み、変わった動きを目指す。
というよりも、ダンサーではないのだから既に変わった動きなのだ。
別の角度から見れば、それらの人の変わった動きとは、稚拙な動きでもあるのだ。
しかし、それを稚拙な動きとは評せず「面白い」と、無責任に自分自身の成長していない主観でものをいう人も少なくない。
もし、その「面白い」と評した人が、有名な人であれば、その稚拙な動きを「面白い=価値がある」と、烏合の衆は誘導される。
そうなると、確かに変わった動きではあるが、舞台としての質がとんでもなく低いものも舞台に現れる。
それは、一過性の舞台としては、成立するかもしれないが、舞台に歴史を創っていくことは出来ない。
また、成長していない主観とは「面白い=興味深い」と「面白い=滑稽」「面白い=一過性のものとしては」という意味の使い分けが自分の中で出来ていない人のことだ。
大方がそうだ。
それが今のコンテンポラリーダンス界の現状だ。
しかし、ここで見方を逆転させると、観客は「変わった動き」だけを本当に見たいと思っているのか、がある。
もちろん、観客に迎合する必要など全くない。
しかし、いずれにしても観客を感動という武器でノックアウトする必要はある。
でなければ舞台表現という相互関係は成立しない。
つまり、観客から入場料を貰う、その見返りという関係が成立しないということだ。
冒頭に戻るが、それぞれの河内音頭の節回しの差異は、知らない人にとってはさほど分からない。
つまり、違いは分かっても、質的に横並びに聞こえるということだ。
もちろん、河内音頭の場合は、それぞれに伝統がありファンがおり、表現としては立派に成立している。
ただ、知らない人にとっては、というところの例として扱っただけである。
そういったところで、コンテンポラリーダンスの世界を知らない人にとっては、変わった動きというけれど、何一つ質的に変わったものはない、ということなのだ。
そこにこころの感動など湧き上がる筈も無い。
そこで、違いを出す為に舞台装置や照明を工夫する。
もちろん、それも舞台表現として大切な要素だ。
しかし、それら付属物を取り払った時、そこに見える動きや身体は、観客に幻想を見せさせるような、こころを震え上がらせるような、高度な質をもっていない。
舞台装置の工夫は大事だ。
そこに必然があれば、という話だが。
大方が、道具の為の道具でしかない。
それは家電製品と同じで、一度家電の便利さを覚えると、もっと便利なものという欲求が生まれる。
しかし、欲求している自分自身は、欲求のレベルは高くなっても、生活は何一つ変わらない。
それと同じなのだ。
スイッチを押している自分は、家電が便利になったからといっても、何一つ向上していないのだ。
あるいは、全く別のジャンルの有名な人と共演する、という手法を取る。
それ自身が相当興味深いものであれば、つまり、相互に優れた芸術性を持ち合わせているのなら、そこに起こることが予測不可能な素晴らしいものになるだろう。
しかし、それも大方が「面白い」の履け違いで、何も起こらない。
ただ、そこに、つまり、舞台で異種の人が一緒にした、というだけなのだ。
大分以前に、能だったか、狂言だったかの人と、コンテンポラリーの若い人がコラボをしたのを見た。
明らかに舞台での在りようが違う。
当然、舞台では何も起こらなかった。
身体の違いが赤裸々に表出されていたから、表現しようとしているものなど素っ飛んでしまったのだ。
それを知らないダンサーだったし、製作スタッフだったのだ。
つまり、そこに関係性など存在していないのだが、舞台では同じ時間が経過される為、面白いコラボだったと評されていた。
大方の評論家など、その程度のものなのだ。
その混沌さが、観客の劇場離れ舞台離れに繋がっているのだ。
ヨーロッパでは、サーカスの方に客は流れているという。
それはそうだろうと合点がいく。
サーカスは単純にやっている事が面白い。
例えば、定番の綱渡り等、何をするか分かっているが、その事自体の難易度が高いので、スリルがある。
相当単純なレベルで感動できる。
と、エンターティメントの殆どを備えているから、そちらに流れて当然だ。
もっと、根本的な事を言えば、観客を楽しませる為、という大前提が明確にあるのがサーカスであり、そこが欠落しているのが、コンテンポラリーダンスなのだ。
もちろん、観客に迎合することではない。
観客と対峙することが抜け落ちているのだ。
もっと根本的には、ダンスという核を持ち合わせた人など、皆無だということだ。
だから「変な動き」に価値を持たせるのだ。
コンテンポラリーダンスの振り付けや制作をする人、そしてダンサー達はここまで考えて、観客に感動を贈られるような舞台を創って欲しいものだ。

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