じゃぁどうすれば?
日常会話でも何かを話す時、その根拠となるというか、基になる材料がある。
専門的に医療なら「解剖学」だろうし、歴史なら「日本史や世界史」また、そこに考古学も人類学も絡んでくることもある。
日常なら、自分の趣味趣向や好き嫌いという不確定なものだ。
沖縄ワークショップ8月10.11.12日
専門的に医療なら「解剖学」だろうし、歴史なら「日本史や世界史」また、そこに考古学も人類学も絡んでくることもある。
日常なら、自分の趣味趣向や好き嫌いという不確定なものだ。
しかし、これら基になる材料が同じでも、人それぞれに解釈が微妙に違う。
それは、時間をかけて詳しく話をしていると「違う」と気付く。
日常では、それほど時間をかけて詳しく話をしない。
そうすると、違いが見えて来ない。
同じ言葉を使っているだけで、共有されていると思いがちだ。
そこが誤解の原点だ。
もしかしたら、誰にでも「同じだと思いたい」という気持ちが働いているのかもしれない。
「同じだと思いたい」というのは、もしかしたら集団生活でしか生きられないという、人という種の遺伝子に組み込まれているのかもしれないとも思う。
私はひねくれているので、遺伝子に組み込まれているのなら、余計にそんなことを思う必要もないだろう、既にあるのだから、と考える。
それがなければ「違う」ということを、どう処理すればよいのかが見えてこないからだ。
沖縄ワークショップ8月10.11.12日