何を聴き返すのか

大分以前から会話の中で「整理して聞き返す」とか「念を押す」という人に違和感を感じていた。
その違和感の意味が自分では分からなかった。

もちろん、これらの行為は事務的なことでは必要だ。
仕事そのものを間違わない為だし、自分の記憶が間違っているかいないかを確認する必要があるからだ。
しかし、そのことと、単なる会話や人生に関わっている話の時に、それがあると違和感を感じていた。

その聞き返しを注意していると、違和感を感じる人とそうでない人がいる事に気付いた。
そこから考えていくと、違和感を感じない人の聞き返しは、自分の体験や考え方に照らし合わせているからだ。
もちろん、その体験や考え方は、私の質に合わせる質を持っているからだ。
つまり、会話を一つとっても、体感や体験を基本として会話があるのか、会話の中の言葉と意味だけを会話だとしているのかの違いだ。

以前、東大の学生と話をしていると、やはりこの違和感に気付き、「聞き直すな」と言い「どうして聞き直すのか」と質問した。
するとしばらく沈黙した後「多分、自分が間違って理解しないように保険をかけているのだと思う」と自己分析した。
その意味では、さすが東大だと思った。
中々自分自身の聞き返しを「保険をかけているのかも」とは分析はしないだろう。
もちろん、それはその東大生の個性かもしれないが。

ただ、この聞き返しは、職人さんのように、作業と密接に繋がっている人には無いことにも気付く。
この気付きは、私としては中々面白いと思っている。
そういった人達は、無意識的に作業のレベルで物事を考えているから、これまた無意識的にそこに当て嵌めているからだ。
その意味では、音楽でも武道の世界でも、その筋の話では聞き返しはない。
自ずと分かるからだ。
しかし、それ等の分野に向いていない人は聞き返しをする。
そういった事での分別も面白い。

そこで思い起こせば、ジャズの世界に入ってからも、聞き返しはおろか質問をしたことが無い。
知らないこと、出来ないことは聞いてもドラムが上手にならないし、上手にならなければ分からないと分かっていたからだ。

だから武道でも同じだ。
武道を言語化していくのは難しいし、音楽も同様に難しい。
それは、言葉の代わりに武道だし音楽だからだ。
そこの真意を直感していない人は、向いていないとも言えるだろう。

息子とは即興での共演をする。
即興というのは「何でもあり」だし、何でもありを成立させることだ。
成立させる為には、成立させられる技術が必要なのだ。
それは単純に演奏する技術ではない。
和太鼓を殆どチームでしか演奏していない息子には難しいところだ。
それは知らない世界だからだ。
その匂いを少しでも嗅ぐことが出来れば良いのではないか、と思っている。

日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ

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