質問もせずに
「見て分かるのなら楽で良い」とは書いたが、以前、あるいは、常に「見て分かるだろう」と書いている。
それは、「何を見たいのか」ということが明確であれば、その人のレベルなりに見える。
しかし、単純に漠然と「分かりたい」あるいは「知りたい」では、何も見えないし何も体験できないということだ。
だから、私はよく切り返すのが「何を体験でき、何を分かったのか」と問う。
そうすると、何も明確な言葉は返ってこない。
漠然としているからだ。
そのクセ、野次馬根性だけは備わっているから、それを好奇心だと勘違いして「興味がある」と、自分が自分に騙されているのだ。
今日のメッツは、クリスチャン達の為に、突き関係を行った。
もちろん、そうなると「肘」だ。そして「反応できる身体」が必須の条件になる。
そこを丁寧に細かく稽古をした。
何時ものように、取り残されていく人は出る。
しかし、大多数が取り残されているのではなく、ごく数人だ。
そうすると、全体が進まないのでそのまま前に進む。
取り残されている人は、決まって口数が多い。
それは相手に持論を展開しているのだ。
つまり、自分の存在価値を組んだ相手の人に、説明しているということだ。
なんと情けないことか。
そしてどうして自分の存在価値を稽古の場で認めて貰わなければならないのか。
そんな事も考え付かないのだから、幼いとしか言いようがない。
しかも、私には質問をしない。
遠目で眺めて頷いているだけ。
無性に気持ち悪くなってくる。
50代の男性だ。
後1日で今回のツアーは終わりだ。
となると、頭はコンサートだ。
息子との共演をもっと濃密にするには、どういう灯台が良いか。
そんな事を考える。
それは、「良い演奏」として、その場の皆さんに堪能して貰う為だ。
もっと無駄なく、しかも激しく、そして静かな。
どんどん欲が出て来る。
無論、まだまだ演奏を続けるのなら、今やれる範囲で十分だ。
だが、そうは思っていないので、最後の演奏を最高の密度で終えたいからだ。