”感じる”は力になる

見えていること、昨日の右半身麻痺の女性なら、「右足が動かない」という事になる。
また、ドラムで言えば、例えば、3連譜をメトロノームテンポ160で叩いている運動であり音だ。

しかし、大事なのは、右足は「どうしたら、どう動かないのか」で在り、3連譜を叩き出している、手であり指を「どう動かして、腕全体はどうなっているのか」というような、見えているものを作り出している状態だ。
そういった事をコントロールしていく為にあるのが「感覚」であり「感じる」という働きだ。

日常の全てはこの感覚・感じるということが付きまとう。
もちろん、日常の所作や行動・行為と目に見えるものを支えている働きだ。
昨日の女性の姿を見ていて、「麻痺している足に感覚が戻ってきた」ということは、目に見える。
だから、「今、右足を感じられているでしょう」と問い掛けができる。
その問いかけが、女性の次のステップへの力にもなるのだ。

見えている、見えない、というのは、あくまでも、それぞれの人の主観でしかない。
だから、本当にそうなのかどうなのかは分からない。
とはいっても、この女性のケースのように、私の主観としての見えるを質問を通して、確かなものとなる事が多々ある。

もちろん、見えない人には見えない。
だから、感覚や感じるという状態を「思う」という意味不明な状態と擦り変わるのだ。
私のいう「感じる」は、半身麻痺の女性のように、決して「思う」でも「想う」でもなく、具体的知覚だ。
だから、その事が具体的働き、具体的作用を起こすのだ。

日野晃’古希’ドラムソロコンサート
4月12日 大阪大丸心斎橋劇場
6月1日 新宿ルミネゼロ

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