怖いという体感が
正月3日目。
今日は朝から、東神奈川にある孝道山へ行って来た。
このお寺は、ダンサーの安藤洋子さんのお父さんがお務めになっているお寺だ。
そこで、毎年行われている正月のお祭りに息子一輝の和太鼓を、と頼まれたのを見にいったのだ。
もちろん、3年ぶりになる安藤さんと積もる話をしに行く為でもあった。
息子とは、ここ数ヶ月音楽での込み入った話をしている。
しかし、それは全部話であって実際ではない。
息子も私と似ていて、「やって見なければ分からない」派だ。
今までの話の理解は、実際的にどうなのかを確認する為でもあった。
今日、演奏をして「怖かった」と、そして「過去にこれだけ緊張したことがあったのだろうか」と終わってから話していた。
やっと、本筋へ入って来たという所だ。
怖さ、音を出す怖さ、ここが体感されて来なければ、練り上げるものは無い。
和太鼓を操る技術など、ある意味では数年で出来るだろう。
その証拠に、太鼓衆一気のメンバーなど数年でソロをしたり、イベントで叩いたりしている。
その程度で和太鼓奏者と名乗れるのか、ということなのだが、世の中そんなものだ。
上っ面しか見えないし、そことしか関わらないから、大迫力での演奏であれば「凄い」となるのだ。
別段それが悪いのでは無い。
それを欲している人にとっては、それで十分だ。
しかし、それは音楽では無い。
音楽に入るとしたら、その端っこのローカルな楽器、つまり、色物だ。
もちろん、それでも良い。
本人が、それ以上を求めなければ、それで良い。
しかし、息子の場合は、私の音を聞いたり、一流のダンサー達との接触がある。
だから、音を出しているだけ、譜面を叩いているだけの自分、ということに気づき探求していけるのだ。
そして今日「怖い」という言葉が出た。
その体感こそが成長の糧なのだ。
もちろん、私も何度怖い目にあったか分からない。
だからこそ、その道を歩いていることが分かるのだ。