またまた「私的には」だ

朝、雨が降っていなかった。
桟木を取り出し、部材に合わせる。
鋸を引き部材にホゾを刻む。
霧雨に気付く。
ここまで。
ふと、後ろを振り返ると、熊野道場の紅葉だった。
この木は、元々弟子の一人が盆栽として育てていたものだ。
15年もすると、野生のように立派な木に育っていた。

「私的には」という言葉が耳についたワークショップでもあった。
もちろん、どんなことでも「私的」であって、それ以外には不可能だ。

だが、問題は何かの基準を外に置いているのかどうかだ。
例えば、長さを測るとき、その時々で「私的にはこれを1mとします」と言って、何かを作り出せるだろうか。
外に基準を設けるというのは、この場合定規であったり、物差しというものが基準ということだ。
それを持たない人の話は、何が何だかさっぱり分からない。
もちろん、当人としては明確なのだろうが、他人にとってはそれを理解することは出来ない。
ただの雑談なら良いのだが、何かしらのアドバイスを求められている時、さっぱり分からないというしかないのだ。
そんな人は、どう人生を歩いて来たのかに興味が湧く。
全く比較ということをして来なかったのではないか、とさえ思う。

「走るのは私的には早いです」と言われても分からないが、「全校で一番でした」と言われれば、それはそれで想像が付く。
もちろん、全校で一番が良いとかどうとかという問題ではない。
そういった比較があることで、見えて来るものもあるということだ。

昨今では、何から何まで比較をしない風潮になっている。
これはどうかと思う。
競争が及ぼす悪影響もあるだろうが、良い影響もある。
悪影響の方が、競争の使い方の間違いから起こるものだ。
そこを考えずに、比較されて傷ついた、ということがあった時、ただちに「比較は駄目」となる。
ではその時、比較をすることで伸びた人がおればどうするのだろう?それは放っておいて、「傷ついた」に対して全体として「比較は駄目」はおかしいだろう。
何よりも、その傷ついた人に対して、何もサポートしていないということなのだから。

いくらルールを変えたところで、個人に目を向けられない人の集団では、そのルールは縛りになるだけで有効に使える筈もない。
そうなると、そこに学校格差が生まれる。
そうか、それで良いということだ。
物事を考える事の出来る人が校長なり、理事長の学校でしか良い教育を受ける事が出来なくなるのは良い事だ。

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