出来た!は曲者

先日の大阪道場での稽古後の記載があった。

肘の稽古で「肘は行くべき方向にいけばよい。行くべき方向がある。それは身体の構造からすれば自然な方向ということで自然な方向に力が出るというのは当たり前のことなのだろう」と話していた師範代。

一見、師範代と同じような現象が起きたとしても、私の中からはそんな言葉は出てこないし、もっていないことに気がついた。
ただ、出来たがあっただけ。

身体から考えられた言葉から、明らかに差があることが分かった。

「出来た」というのは嬉しいもの。でも、一瞬喜んだ次にすべきことは、「アホか!いつまで喜んでるねん!」と自分にツッコミ「何故、出来たのか? 」「何を持ち帰るのか?」「何を持ち帰られるのか? 」をすぐに考えることでした。


これは、大阪道場での稽古後の弟子の一人の気付きだ。
「出来た」という現象は常に曲者なのだ。
「何が・どう?」という自己確認がなければ、それは「気持ちを満足させた」だけに過ぎない。
その意味では「気持ち」を満足させる事などどうでもでも良いのだ。
それでも、気持ちの満足を味わいたいとすれば、一瞬で爆発させることが大事だ。
「やった〜!!」だ。

そうではなく、ダラダラとした満足は、その満足に囚われてしまうので、最悪だとも言える。
俗に「昔は良かった・昔はなぁ」と始まるようなことだ。
昔は「記憶でしか無い」にも関わらずだ。
その意味では、出来た現象も過去のものだ。

だからこそ、「何が・どう」が必要なのだ。
その確認が「身体技術」を作り出して行くものだからだ。

ここに書かれている師範代は、自分の身体からその言葉を引っ張り出し、これを書いた弟子の一人も自分自身で気付いた。

この事が、日野武道研究所の言う「武道の稽古」だ。

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