一寸した覚書
要素は全体があるから、そこから抽出されたもの、あるいは抽出したものだ。
例えば、胸骨操作がある。
それは身体全体を繋げて使う時の核になる場所であり動きだ。
その胸骨操作が出来るようになるとする。
「で、何が出来たのか?」だ。
もちろん、胸骨操作が出来たのだ。
しかし、そこに自分自身の全体を持っていない人にとっては、要素でも無いし、何かしらの部分でも無い。
今回の沖縄ワークショップに、最近毎回受講してくれる空手の先生が来ていた。
その人にとっての胸骨操作は、空手という全体、そして、様々な突きや身体の捌きの為のものだ。
それは、取り組んでいる姿を見ているとよく分かる。
また、ポルトガルにダンス留学をしているダンサーも受講していたが、彼女にとってはダンスという全体に、胸骨操作は繋がる。
単純に身体操作に興味があって、という人にとっては、前述の要素でも無いし、部分にもならない。
もちろん、自分の身体操作に取り組み汗を流す、というのは良いことだ。
身体は思うようにならない、ということを学べるからだ。
と考えられる人にとっては、自分の考えが全体になり、身体に取り組む事が部分になる。
こういった事は、理屈ではなくそれぞれの人の実践の中から、生まれて来た全体を持っている。
もちろん、理屈で全体と部分、全体と要素ということを語ることは出来るが、それぞれの人の実践を測ることは出来ない。
その測ることの出来ない実践での気付きが、要素を生み出す元になるのだ。