無限の可能性は

何でも同じだが、「何を見るのか」という視点を持つと、「何を」が際立ってくる。
日常では、「何となく」しか見ていない光景でも、人の顔でも「何を」を持つと、それこそフォーカスされ明確に見える。
そんな時、今まで一体何を見て来たのだろうと思い返す。

その「何を」は、職業や趣味等によって違う。
だから、それぞれの専門家の人の話を聞くのが好きだ。
専門によって、同じものでも見え方が違っているからだ。

「明鏡塾」では「触れる」を訓練して行くから、自ずと「手」に焦点があたる。
「あかん、あかん、それでは触っていないで」このブログで何度も書く言葉だ。
感覚の良い人は、この言葉を身体で分かるようになる。

先日の「大阪・明鏡塾」で、ある理学療法士が触られる側に回り、感想を口にしていた。
しばらく考えた後「う~ん、今までにない感じで、身体に触れられていないのは当然だが、何ともいえない気持ちの悪い感じです」と言葉にしていた。

身体での感覚は、日頃言葉にすることは余りないので、誰しも言葉にしにくい。
しかし、この「触れる」というところでの本質的なことは、素直に感じ取れば、つまり、余計な説明や状況、社会的な遠慮、見栄や体裁というものを取っ払っていくと、「気持ち悪い」も「触られていない」も判るものだ。

自分で「優しく触れよう」と思っている手は、本当に気持ちが悪いのだ。
それは、思っている手であって、優しくという相手の感覚を熟知した手ではないからだ。
いくら自分が「優しく」と思ってみたところで、相手が「優しく触れられて気持ちが良い」と感じる事はない。

ここに「思った事」と実際の落差があるのだ。そのことを自分として気付き、自分として「これでは駄目だ」としない限り、「思った事」と実際という溝を埋める事は出来ないのだ。
「思った事が実現する」というのは、「思う」ということと実際とをくっつけられた人の話であって、それを全く分かっていない人の「思った事」は実現する筈もないのだ。

例えば、何かの職人さんでキャリアが50数年という人は沢山いる。
そういった人達の言葉で共通しているのは「毎年毎年1年生ですわ、一向に満足できません」
というようなことをいう。
それくらい「何を」は無限であり、逆に言えば、それを自分自身の持つ「無限の可能性」というのだ。

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