見たままやる2

見て出来るならこれほど楽なことはない。
しかし、見て出来るのが、これまた人間の不思議なのだ。
実際は、こちらの方が不思議だ。
不思議な技というのは、「合理的な」、ということの象徴だと考えれば良い。
もちろん、そこを越えようとすると、自分自身を支える意識や精神が含まれるので、至難の業なのだが。

どうして、見るだけで出来るのか?それは発想が全く逆で、見るだけだから出来るのだ。
極論だが、理解すれば出来ない、出来なくなるのだ。
それは、理解という事が、「見ているものを言葉で分析していまうので、全体の繋がりがなくなってしまう」からだ。
しかし、「そのような」という見た目の「出来る」は、出来る事もある。

見て出来るのは、出来たとしても何がどうなっているのかは分からない。
ただ出来たなのだ。
しかし、ここで大事なことは無意識的な工夫が山ほどあったことだ。
それが後日、相当な宝物となるのだ。
そして、出来ているのか出来ていないのかが分からない。
もし、理解して出来ているならば、自分の「出来た」が「出来た」になる。
ところが分からないから、見たことを見本に、いくらでも工夫を重ねる。
そして考える。

理解をして出来るに辿り着くのも、もちろん、自分の力で辿り着いたことは間違いではない。
しかし、「そのような」ではあるが、決して「それ」にはならない。
それは、「出来た」は自分が決めた「出来た」だからだ。
それが本当に出来たかどうかをどう検証するのか、そこが抜け落ちてしまうのだ。
しかし、見たままやる、の場合は、何時までたっても自分の身体に違和感が残る。
もちろん、手本との比較でだ。
だから、検証と言うところまでいかない。

では、どちらも検証出来ないのでは?となるだろう。
しかし、理解の場合は、それ以上はないが、見たままの場合は、出来たが無いのだからいくらでも手本に近づく事が出来る。
ざっくりと言えば、そんな違いになるだろうか。

東京ワーク・ショップは6月7.8.9.10日
神田道場です。

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