気持ちの無い言葉は通じない
先日「武禅おさらい会」をやった。これは定期的にやろうと思っているが、前回では取り組み方の差が一挙に出た。
そうなると、稽古にならない。
真剣風と真剣との違いだ。
「風」にするのであれば、別段稽古をする必要はない。
日常は「風」で、殆ど間に合うからだ。
そして、現に現状の自分で間に合っているから、日常を不便なく過ごせている筈だからだ。
つまり、その人にとって「武禅」の稽古など不必要なのだ。
その事を自覚しなければ、時間とお金の無駄だし、真剣の人に迷惑だ。
つまり、そういう「他の人」という考え方を持たないから、あるいは、気付かないから「風」なのだ。
もし、迷惑をかけている、邪魔をしていると感じるなら「風」を即座に止めれば良い。
その事に全力を傾ければ良いだけだ。
しかし、「風」に全力を傾ける。
そうなると安物の役者の稽古と同じになる。
真剣な人がいない場合は、「風」でも何でも良いのだが、真剣な人の数が増えると、そういうわけにはいかない。
前回の打ち上げの時、そんな話をした。
本当に自分自身が、他人と本当の関係を築きたい、あるいは、関係を築ける自分になりたい、と望むまでは稽古をする必要はないのだ。
いわゆる、機が熟してないからだ。
「出来る・出来ない」という価値観で生きている人は、この「風」が多い。
「出来た風」を目指すからだ。
はっきり言えば、出来た風を目指す人と、真剣な人は生きている精神世界が違うのだ。
だから、言葉が通じないし、相互で助言の仕合も出来ないのだ。
もちろん、「風」の人は通じていると思い込んでいるが、実際には通じていないのだ。
そこに伝えたいという気持ちが無いのだから。