自分以外の感覚を知ることが

「触れる」というテーマは、「明鏡塾」でも武道でも、私にとっては一番重要な要素だ。
もちろん、単純な話ではない。
触れるというのは、自分と自分以外のモノや人との接点だからだ。
ここが「関係」にとっての、最重要点だと考えている。
その「触れる」がどれほど、自分に惑わされずに「触れる」であるかどうかが、自分と自分以外のモノや人とのパイプになるかならないかに関わるからだ。
つまり、対立するか、対立しないかが決まるということだ。

例えば、自分の思いや考えを相手に押し付けるのは対立だ。
それよりも、相手の話を聴く方が対立を避けることが出来るし、相手を理解することが出来る。
この「相手を聴く」というところが「触れる」である。

相手の腕を握る。
これは、明鏡塾でも武道でも共通する。
「何の為に」→相手を知る為にだ。
この「相手を知るため」が抜けると、目的を見失い、自分を押し付けるになるのだ。
相手の何を、というのは、その状況で、あるいは、自分や相手の立場上でだ。
ここが大きく人が勘違いを起こし、問題を混乱させる点でもある。

状況や立場を通り越し、「人として」とか、「いや私は」と、概念や観念、思い込みを持ち出すから混乱してしまうのだ。
だから、その場では触れる事が出来ていない、と言うのだ。

思考は、このように常に飛躍させる事が出来る。
それが良い場合もあれば、悪い場合もある。
想像というのは良い場合だ。
悪い場合は、それを目の前の実際の時に、紛れ込んでしまう場合だ。

この触れるを「純粋化」してしまおうとしているのが、明鏡塾や武道だ。
もちろん、それはそのままでは不可能だ。
だから「感覚」を使うのだ。

しかし、この感覚とて純粋ではない。
感覚そのものは純粋なのだが、その感覚された情報を選択するのは自分だからだ。
例えば、春になり陽気がポカポカとしてくる。
その時、暖かくなった、という人もおれば、まだ寒い、早く暖かくなれば良いのに、と思う人もいる。
状況としては同じでも、そういう違いがある。
それを純粋化していくというものだ。

もちろん、それぞれの人が感覚し出て来ている言葉が間違っているというのではない。
違いを「知る」ということだ。
知ることで、他の感覚を体感する回路を持つという作業をする、ということである。

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