教科書通りは嫌だ

ワークショップ中、会場の中だけの世界になる。
そうすると、「ここは、どこだった?」という感じになる。
それは沖縄で見る顔、東京で見る人たちも受講してくれているからだ。

「そうか、ここは天王寺だった」私の子供の頃の遊び場だった。
動物園、天王寺公園、茶臼山、通天閣、飛田新地、どこも小学生や中学生の頃、ウロウロしたところだ。
もちろん、その地域の面影などどこにもない。

面白いもので、小学生の頃うろついたところは、完全に記憶に定着している。
そして、そこに郷愁を感じる。
私にとっての原風景なのだろう。
ゴチャゴチャしたところ、ゴミゴミしたところ、人が溢れかえっているところ、小汚いおっさんやおばはんがうろついているところ、どれもこれもしっくりくるのは、その辺の影響なのだろう。
だから、四角四面の人工的な街並みには息が詰まるのだろう。
その辺りを歩いていると、身体が痛い。
角がある感じがするのだ。
感覚というのも、そういう育ち方をするのだろう。

私の言葉が汚いのも、自分にとってしっくりするからだろう。
裸の言葉が好きだからだ。
もちろん、裸の言葉=汚い言葉ではない。
裸の言葉ではない言葉というのは、誰かの言葉をその自覚もなく使っていることだ。
誰かに自分が乗っ取られている、という状態を感じてしまうから気持ちが悪いのだ。
当然、そこを突っ込んでしまう。

人生を生きていて、というよりも、人生を生きているのは間違いなく「わたし」である筈だ。
にもかかわらず、メディアから垂れ流される言葉、ネットに溢れる言葉、両親からの言葉、周辺にある言葉。
それらは「言葉を憶える・使い方を憶える」という意味では役に立つが、それを自分の言葉に直していかなければ、教科書のままだ。
という事に気付いている人は少ない。
「わたし」の人生なのに、その全てを決めているのは「教科書」であれば、「わたしの人生」ではないだろうに。

私はわたしとして人生を全うしたいだけで、それが目的だ。

今から、飛行場へ。

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