人は関係してしまうのだ。そこに必死があれば
昨日は、疲れが出て意識朦朧状態だった。
今、皆が書いたレポートを読んでいる。
皆が一緒に取り組んだ一つのワークに対して、それぞれの視点、それぞれの感覚が異なる事が良く見えて、本当に人の違いがよく分かる。
一つの言葉を投げかける、例えば「目で聴くんやで」と。
もちろん、この言葉は誰にも、それこそ理解できない。
だからこそ、その人の全てがそこに集約されて行くのだ。
「どういう事ですか?」という質問が出る。
そうすると、その人の全て、という人の持つ問題に向かう能力、問題を解決しようとする能力が閉ざされてしまう。
過去の体験の蓄積、過去の問題解決をしてきた蓄積の金庫が、扉を閉ざしてしまうのだ。
「自分で考える」とは、その金庫の扉を開けることと、想像力の使い方が作り出すのだ。
しかし、大方はそこに触れることなく、自分の持つ思考パターンの側で、その答えを導き出そうとする。
思考パターンを使ったとしても、問題そのものを「どういうことだろう?」となれば、これは金庫が開く可能性が出てくる。
そういったことを、即興的に、つまり、その場で起こる状況と共に実践していくのも「武禅」という講座の本質の一つでもあった。
それが社会を歩く、自分が自分の人生を歩く為に絶対必要な能力だからだ。
また、「どういうことですか?」という質問は、自分にとって恥ずかしいものだという認識を持っている人は少ない。
余りにも「分かりやすく」とか「合理的に」という、人を馬鹿にしていく、つまり、自分で物事を考えて行くという能力を削ぎ落としていく風潮にどっぷり浸かっているからだ。
だから、そういう風潮に危機感を感じないのだ。
私は「武禅」100回で、受講してくれた多数の人達のレポートを読むことで、余計にその危機感を増した。
それこそ分かり易くではないが、どういうワークの組み立てが、多くの人に響くのかを考えさせてもらった。
100回という回数は、私にとっても非常に有意義なものだったということだ。
それを回数を重ねると共に、皆に還元し、今回のワークの中身になっていたのだ。
回を重ねると共に歩いていた事を、改めて認識させて貰った最後の「武禅」だった。
まだ、レポートは読みかけだが、人間関係を象徴するレポートがあったので、一つ紹介する。
「その場にちゃんと居て、お互いに必死で向き合っている人。そして必死度の強い人には勝手に応援したくなる。」
これは、向かい合っての「ナマムギ合戦」の一幕で起こった現象だ。
女性が男性に食らいついていった時、その必死が皆に伝わり、自然発生的に皆から声が出、皆が一丸となってしまった時の事だ。
一つになるというのは、そして共有体験をした。
そういう能力を人は持っているという証だ。
人は関係出来る、ということである。