ちょっと考えてしまう
昨日は、海外では珍しいことが起こった。
それは、組んで稽古をするが、相手が自分勝手にやるから、稽古にならない。
それで、その相手が切れて「お前とは稽古が出来ない」と言って、別の組に入っていった。
切れられた人は、全くそれが分からないので、その人を追いかけ、再びやろうと声をかけていたが、その相手は「お前とは無理だ」と寄せ付けなかった。
外国の人は概ね優しい。
色々な人を色々な人として認めているので、どんな面倒な相手でもうまく稽古をする。
それは見ていても素晴らしい能力だと思う。
だから、こういったことはまず起こらないのだ。
日本ではやはりこういったことは起こらないが、それは意味が違う。
自分の意見をはっきり言えないから起こらないだけだ。
ワークショップで、何かを学んだり習ったりする時、そのワークショップでの指示をやろうとはしない人に「それは違うやろ」と言えないのは基本的におかしい。
学ぼうとしていることが、違うことをする人がいることによって学べないというのは、有ってはいけないことだ。
やろうとして出来ないのと、最初から違うことをするのは、全く別物だ。
もしかしたら、その選り分けすら出来ないのだろうか?
「先生、最初の頃やった『意識の反応』をやってください」とリクエストがあり、それをやることにした。
もちろん、初めて取り組む人には難度が高すぎる。
しかし、大方の人はまずそれが分からない。
ワークショップには色々な人が受講しているので、専門的には出来ない。
これもおかしな話だ。
私の考え方としての武道のワークショップなのに、その「専門」として教えられないのだから。
これは何故かというと、こちらは専門だが、受け取る側がレクリエーションのノリの人もいるし、ただの興味本位の人もいる。
一握りの人だけが、専門的に習いたいのだ。
その専門的に習いたい人だけに的を絞ると、それ以外の人はついて来れなくなる。
この辺りが、ワークショップ経営を考えれば難しいところなのだ。
いくら説明しても、説明されたことと、自分が今やることをくっつけることが出来ないし、くっつけないから、説明も全く意味がないのだ。
しかし海外では、出来るだけ説明をするようにしている。
それは、私自身が整理する為の練習になるからだ。
剣道の先生が「日野先生の話はテレビでも見ているのと同じなのですよ、話が終わったらペチャクチャまるで関係の無い話で盛り上がっているから」その通りだ。
その後は基本的な腕のねじれ。
まずは、肩が回らなければいけない。
しかし、そこを最初にやったとしても、何のことやらわからない。
だから、とりあえず全体としての「腕がねじられた状態」を作り出す。
この形を間違うと、肩がねじれに見合って動かない。
だから、ねじれの全体の形を整える作業をする。
しかし、いずれにしてもやっかいなのは、余程身体を正確に使うという癖を持っていないと、形を整える作業は難しい。
形を整える事が出来ない場合、一番良い方法は、「自分はどんな形になっているのか」を知ることである。
そこで、動画を撮ったり、写真を撮ったりすれば良いのだ。
大方は、ここの作業が抜けているし、そういった検証をすることが大事だという考えは頭には無い。
もちろん、それは外国の人たちも同じだ。
中にずば抜けた身体感覚能力のある人がおり、その人はいとも簡単に全体の形を作り出す。
もちろん、これも正解共通している。
昨日の夜の稽古は、この「ねじれ」をやった。
初めて取り組む人もいるからだ。
「腕を動かさない事、ねじれが戻っていく感覚を掴むこと」と指示を出すが、もちろん、古い人の数人しか出来ない。
それ以外の多くの人は自分が腕を動かしているのか、動いてしまったのかを判別できない。
もちろん、当たり前だ。
そういう視点を持って、自分の動きに注意をしたことがないからだ。
しかし、多くの人は、そのことにも気づかないのだ。
そんなことを考える私がおかしいのではないか、と考えてしまうことがある。
余談になるが、こうなると鬱に突入する。
解決不能なループにはまり込んでしまうからだ。
あるいは、その気分に支配され、どうにもならない側に思考が働くからだ。
もちろん、私はそうはならない。
それは、身体を使って考えるということが基本としてあるからだ。
精神的に落ち込んでしまう人の多くは、この「身体で」を持ち合わせていないからだ。