もう一丁核心へ
「日野は変わってるよ」中学生の頃から言われていた。
「何が?」当人には分からない。
当人にとっては、常に何時もと変わらないからだ。
勉強をしたいと思わないことが「変わっている」のか。
皆と一緒でないといけない、と思わないことが「変わっている」のか。
何時も書いているように、私は器械体操をしていた。
授業中もずっとその事を考えていた。
どうすればこの「技」が出来るのか、どうすれば誰よりも美しく出来るのか。
教科書やノートは、全部そのことで埋まっていた。
だから、秋の新人戦には出なかったが、2年生になってからの府の大会で個人で7位に入り、市の大会で4位になり、市の代表に選ばれたのだ。
それは私が所属するクラブの誰よりも工夫を重ねた、ということの結果だ。
この結果を出したのは私だけだからだ。
したくない勉強を中途半端にやっても、頭が痛くなるだけ、あるいは、眠くなるだけだったからしない。
3年生になった時は、オリンピックの強化選手に選ばれていた。
だから当時の特待生という枠で高校から招聘があった。
一生懸命「どうすれば」と考えたこと、練習をしたこと。
それが人と変わっているというのか。
因数分解が出来るのと、体操で大阪市の代表になるのと、どう比べられるというのだ。
ほんと、ふざけた世の中だ。
「普通」に勉強をするとはどういうことなのか。
勉強をしたい人はやれば良い。
したくない人は、自分のしたいことをやれば良いのだ。
自分の人生なのだから。
昨日、トロントで鍼灸の仕事をする生徒と、そんな話をした。
その彼は「小学生低学年の時、皆が手を繋いで何かをする、というのがあって、『なんで、そんな気持ちの悪いことを、俺がしなければならないのか』と思っていましたよ」
と言っていた。
そして「私は変わっているのでOKです」と。
これは何の話かというと、大人の発達障害の話だ。
「俺らは発達障害に当てはまるらしいで」と大笑いした。
二人共、普通じゃない、変わっている人なのだ。
それで良い。
人と一緒なら、それこそ生まれた来た価値がないやんけ。