良い音楽と好きな音楽
東京ワーク・ショップは6月2.3.4.5日です。
定員が一杯になりつつあります。
申込みはお早めに!
http://hinobudo.wixsite.com/workshop/workshop-1
「日野さんは、どんな音楽を聴くのですか」と聞かれる。
「良い音楽はよく聴くよ」と答える。
「誰」ではなく、「どんな」ではなく「良い音楽」だ。
先日、仲間の内科医とジャニス・ジョップリンの話になった。
「やっぱりええよ」だ。
それは、ジャニスに思い出を重ねたり、ジャニスそのものの人生をダブらせたり、つまり、雑念を全て取っ払った時に浮かび上がってくる「何か」。
それが有る、あるいは感じられる、感じさせられた、感覚を湧き上がらせてくれた、そういった反応が身体に起こるからだ。
脳で聴かなければ駄目なのではなく、感性に直接響いてくる、響かせられるから「ええで」なのだ。
それこそ「音楽的に」良いのだ。
好きだ、ではなく良いのだ。
よく書いているように、好きと良いが自分の中で混乱してしまっている時代には、混乱しているから分からなかった。
もちろん、混乱したから「音楽的とは?」という問題を抱えられたのだが。
脳で聴かなければいけない音楽は、音楽ではないと私は定義している。
同じ様にダンスも演劇もしかりだ。
だからといって、やたらと感情的なものが良いのではない。
それはそれでうるさい、あるいはクサイだけだ。
脳で聴かなければいけない、というのは、ある意味で説明しなければいけない音、ということとも言える。
これはこんな音を使っていて、こんな構成で、こんなコンセプトで…、というような事だ。
そういった解説が必要なら、音を出すより言葉にしろ、と言ってしまう。
音に全てが現れていなければ、音の意味も価値も全くない。
これは、友人の画家である寺門君が、キャンパスの上だけが世界だ、と素晴らしい言い方をしていた。
そういう事だ。
料理と同じだ。
時代や思いにドンピシャの音もある。
だから、選り分けが難しいのだ。
相当聞き込まなければ分からない。
一つ言えることは、良い音に国境は無いということだ。
アフリカの人もエスキモーの人も、アジアの人もということだ。
当然、あちこちに散らばってはいない。
しかし、原石はあちこちに散らばっている。
その原石を「表現」というレベルに昇華させているところに価値があるのだ。
「感じる」ということ「触れる」ということは、そういった感性の磨き方を続けた中で、見つけ出したものだ。
音楽にも触れられるのだ。
但し、こころの奥底で。
ワーク・ショップでは、こういった「違いの発見」をする。
頭脳が選り分ける違いと、感性が選り分ける違い、ここを開発しなければ動物ではないからだ。