考え方が身体を作る
4月28.29.30.5月1日京都ワークショップ
詳しくは
https://www.hino-budo.com/2014KyotoWS.htm
パリでドイツの雑誌の取材を受けた。
しかし、その雑誌の持つレベルが余りにも低いので、噛み合わなかった。
どこででも聞く質問で「日頃はどんなトレーニングをしているのか」がある。
つまり、武道と言えど、スポーツ的なとらえ方、肉体運動的な捉え方しかしていないのだ。
もちろん、その時期時期で、肉体を駆使しなければ獲得できない事がある。
しかし、そこは少し間違っている。
つまり、肉体鍛錬というものは、まず考え方があり、それにそって有るものだから、考え方を問わなければ鍛錬が見えてこない。
そういった構造を無視した質問には答えようがない。
おまけに間に通訳が入るから、余計に通じない。
もちろん、それは外国に限った事ではない。
日本でも同じだ。
私が「考え方が身体を作る」と言えば、それを精神論だと捉える人もいる。
先日もそんな話になり、「しやないな」で終わった。
確かに精神論かもしれないが、そこには具体的な肉体訓練を用いる精神論だ。
しかし、その事を理解するのは、スポーツ的考え方の人には難しい。
そこで例えとして宮大工の技術をいう。
いわゆる大工さんと、宮大工になる人では、ものの考え方がまるで違う。
違うから、結果としても宮大工の技術が生まれ、街の大工さんの技術になるのであって、その技術だけを取り出してああだこうだと言えるものではない。
そんな当たり前の事で、物事を見ていく考えていくという事をしなければ、真に価値のあるものと出会える事はないのだ。
先日のヨーロッパでのワークショップで、私の指導するのは武道の技ではなく、身体の技術ですよ、と何度も繰り返した。
身体技術が高まれば、自分自身の取り組むもののレベルが向上する。
そんな図式だ。
もちろん、日本でのワークショップでも、一貫しているのはそのことだ。
そして、関係性だ。
そして、そこに潜んでいるのが表現だ。
これらは、当たり前の事であって、特殊なことではない。
どれだけ素晴らしい言葉を話す人でも、その姿を見れば、そして声を聞けば正体の輪郭は見える。
つまり、誰でも表現しているということだ。
その表現されているものを、素直に受け取る。
それも稽古をしなければ、先入観で相手を見誤ることも出てくる。
本当は、表現塾こそ一般の人が受けてほしいワークなのだ。