自分を見つめ直す為に
「現実味が無い」というのはどういう感じか。
自分で書いて、改めて「どういうことだろう」と思った。
いわば、生きているのか死んでいるのかがハッキリしない感じ、といっても、「生きてまっせ」と帰って来るだろう。
では、「生きている」とはどういう感じだろう。
これは単純だ。
「死」という終着点を認識した上で、日々を過ごしている事だ。
終着点へ向かっているからこそ、日々を大事に出来るのであって、終着点を持たない人、認識していない人が日々を大事には出来ない。
「死」というものが、日常から遠のいて久しい。
遠のいて、というのは、家で老衰を迎えて死ぬ人が少なくなった、つまり、病院で亡くなる人が多くなり、その事で身内の死というものに接する機会が少なくなったからだ。
生から死への時間的経過を体感出来ないのだ。
そんな日常が「死」という誰もが迎える最期を、認識出来なくしたのだ。
だから、例えば、コロナでの死者が約2年で18.000余人にも関わらず、コロナ感染を最悪の状態だと思う人が多い。
年間112.000余人の肺炎、344.000余人の悪性腫瘍、28.000余人の自殺者、52.000余人の老衰死、そして、全体は1.250.000余人の方が毎年亡くなっている。
そんな実際から見て、コロナは最悪なのか?
何に怯えているのか?
自分は何に怯えているのかを考えた事があるのか?
数字を見れば、メディアの報道は不安煽りでしかない、と自分自身で結論付けられる筈なのだが、それが出来ないのは一体何故か?
怯えるのは自由だが、そんなくだらない事にグダグダ時間をつぶしている間にも、自分自身の人生は終焉に向かっているのだが。
自分を見詰める「武禅」
「武禅」10月28,29,30日
https://www.hino-budo.com/buzen5.html