ガラス玉のようなスカスカの目
ガラス玉のような目という言い方をする。
もちろん、輝いているという意味ではない。
意志や思考が見えず、ペラペラの薄っぺらい目という意味だ。
洞穴のような目という場合もある。
これも同様だ。
目という器官は、「見る」という働きをするのだが、同時にその「見るの中身」つまり、「何を見たいのか」が第三者には見えるのだ。
つまり、「目」は、見ると同時に見られている器官ということだ。
「武禅」では、きちんと相手と向き合う事が基本のワークだ。
意志を向けている状態だ。
それは、犬でも猫でも、赤ちゃんでもやっている事だ。
それが、人間だけが成人になるにつれて、出来なくなっているのだ。
結果、ガラス玉のような洞穴のような目になるのだ。
きっとそれは、自分の外部に対して、何の興味も好奇心も湧きあがらなくなっているからだろう。
それは、趣味嗜好の範疇で片付ける問題ではない。
自分の外部、つまり、世間そのものの状態や他人に対して、一切関りがないという事になるからだ。
危機管理も出来ないという事にもなる。
「普段どれだけ、ただ言葉を喋っているだけなんだろうと思いました。本当にコミュニケーションが取れていないんだろうと痛感しています。」
これは、「武禅」でのワークの後の感想文の一つだ。
顔だけその人に向けているから、相手の人からは「私と話をしていない」と返されていた人のコメントだ。
10月29.30.31日「武禅一の行」
前回のレポートを読んで下さい
https://www.hino-budo.com/buzen5.html