察する、が含まれている
懇親会は早い目に終わった。
常連の一人が「二次会は無いのですか?」と言うが、全体がその雰囲気ではないので止め。
目に見えないコロナの影響が、密度の薄さに現れているのだろう。
言葉は難しい、毎度の事だ。
ワークショップの途中での質問が、改めて私が話す言葉を分析する結果になった。
改めて振り返ると、そこには日本人独特の「察する」が含まれている事に気付いた。
当然、察することの出来ない人には分からないということだ。
では、どうして「察する」が入った言葉の並びが必要なのかを考えた。
もし、その察するを省いて、全て言葉化出来たら分かるのか?出来るのか?だ。
もちろん、出来るかもしれない。
でも、その事を意識に上げ、作為的に「出来る」になる。
つまり、それを他人がみれば違和感がある行為になるのだ。
それは、「こうしなければならない」が見えてくるからだ。
察するということで、行為があると、「そのまま」やるので、そこに違和感は発生しない。
そんな違いがあるのだ。
その意味で、言葉化されたことを理解し行為を起こすと、それは自発的なものではないので、どこかに穴が生じてくるし、何よりも違和感を発生させるのだ。
今回のワークショップでは、日本語という日本の文化を改めて考えるキッカケがあった。