16年前に書いていた

丁度2004年11月にブログで「武禅」の事を書いていた。

「武禅」での正面向かい合いは難しい。
いや、物事と正対するのは難しい。
それはわざわざ正対しなくても過ぎ去ってしまうからだ。
台風が去るのを首を縮めて待っていればいずれ通り過ぎる。
まさにそうしていても、生活することに何の支障もないからだ。

しかし、もしも自分のことを誰かに分かって欲しいと思ったとしたら、自分の話すことを誰かに真剣に聞いて欲しいと思ったら、自分が親で子供に何かを伝えたいと思ったら、上司で部下から信頼を得たいと思ったら、そのことと正対するしか道はない。
決して、巷にあるマニュアル本では解決することはないのだ。
それは、パープーの野郎が、パープーの女が「ご注文は~だったでしょうか」と訳の分からない日本語を使っているのと同じで、こちらは違和感や不快感そのものしか感じないのだ。

であれば、本当に正対するとはどういうことなのか、が分からなければ前には進めない。
東京の武禅でその糸口になるレポートがあった。
「今日もとことん駄目だしをされて、ようやく駄目な状態であることを少し認識できた。言葉を発する、声を出す、ということの効果がこんなに大きいとは思わなかった。『気持ちを出す』と言われても全く出来ない事を『声を出す』を媒介として多少出来るようになる、手掛かりになること実感した」
とあるように、「声を出す」というのは、重要なキーワードになるのだ。

何故か、それは声は気持ちや意志の表れだからだ。
その気持ちや意志が相手に向かって突き進んだ時、正対の側面が見えてくるのだ。
改めて声を出すのは難しい。
しかし、その声は声楽のような音、オペラ歌手のような発声の音ではない。
そこには「気持ち」というベースが必要なのだ。
音はやかましいだけだ。
何故なら、どこに向かって発しているのかが明確ではないからだ。

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何ら訂正する必要はない事を書いていた。
つまり、時代は流れ変化しても、人間そのものは何ら変わらないということだ。
もし変わるとしたら、劣化側しかない。

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