無意識的な自分だから
自分は「今何をしているのか?」どんな事にでも重要な事だ。
日常なら、どれほど曖昧でも自動的に時間は流れていく。
つまり、習慣が全てを熟してくれるからだ。
そして、そこに厳密性を求められることは無い。
大きくは、例えば、食事の用意、掃除、入浴、とにかくあらゆる所作や行為は、その習慣がやっている。
そういった無意識的な所作や行為が自分自身の日常を消化しているのだ。
つまり、「今、何をしている?」という問いには、「いや、食事の用意をしていますけど、何か?」と答えるしかないし、それは間違いではない。
しかし、身体をどう動かしてなにをしているのか?の答えにはなっていない。
それが自分自身だ。
だから、武道の稽古でもワークショップでも、明鏡塾であっても、その自分自身は何ら変わることは無い。
だからこそ、意識的な行為を徹底し、しかも、そこに客観性を持ち込まなければ、成長させるものが見えて来ない。
その為に、動画や写真を多用するのだ。
自分の姿を見て愕然としなければ成長は無い。
しかし、もちろん、愕然としても成長は無い。
「だから、どうするのだ」があり、「何をどうする」という実際が始まるのだ。