懐かしい動画を見て

息子のチームは2002年から始まった。
その懐かしい動画があった。
改めて見ていると、今との違いがよく分かる。

その創設メンバーと、後から入って来たメンバーとの熱量の違いがよく見える。
これは、どんな分野でも言える事だ。
例えば、チームを作ろう、という一輝や他のメンバーの情熱。
これと、チームが出来ていて、そこに入るメンバーとは自ずと情熱に差がある。
もちろん、目的も違う。
しかし、言葉というのは厄介で、共通語を使う。
「皆んなで」とか「良い音を」「観客を喜ばせる」等々。
全部共通語として通じる。
しかし、それを使っている人それぞれの意味合いが異なる。
もちろん、そんなことを確かめる事はない。

当時、息子は「どうしてメンバーは練習をしないのか?良い音を出したくないのか、和太鼓が好きじゃないのか」と愚痴っていた。
これが新規メンバーと創設メンバーとの情熱の差だ。
それぞれに、和太鼓が好き、良い音を出したいのだ。
だが、如何せん違うのだ。

当時はそれが目立っていたが、創設メンバーが諸事情で辞めていき、新規メンバーの入れ替わりが頻繁にあり現在になっている。
そうなると、何もかもが違う。
創設時の思いとは別の目的やレベルを持たなければ仕方がないのだ。
もちろん、レベルということでは、個人のグレードを上げることだ。

グループということでは、全く新しい視点で見つめ直す必要がある。
創設メンバーの持つ情熱など、欠けらもないからだ。

大阪城や難波の駅前での演奏から始まったが、この時はたった3曲しかオリジナルはなかった。

それでも、「何が何でも」という情熱が溢れ、凄まじい音が出ていた。
だから、市バスまで止まり、一輝達の演奏を聞いていた。
たった3曲で、一晩のカンパは30,000円を越した程だ。
もちろん、警官も来た。
難波周辺の映画館から苦情も出ていた。

この頃の演奏技術はまだまだ稚拙だ。
しかし、それを上回る情熱が、音を作り出していた。
それが理想の形だ。
つまり、芸術はこの情熱と技術のイタチゴッコなのだ。
それが時と共に、情熱を技術が上廻るようになる。
そうすると、演奏が陳腐になってくる。
陳腐になる、というのは、観客に響かせる物が無くなってくるという事だ。
もちろん、それは音楽だけの話ではない。

今では路上パフォーマンスは、ごく普通に行われている。
しかし、そこには「止むに止まれず」という情熱はなく、幼い自意識だけが溢れている。
「見て見て、私を、良いでしょう」と。
まるで、親の注目を引きたい盛りの4,5歳児の如くだ。

技術は内的必然から生まれてくるものだ。
だから、思わず見る、思わず聞くという具合に反応してしまう。
あるいは共鳴してしまう。
しかし、必然から生まれていない技術には、何の反応もしない。
「上手だね」「凄いね」「で、何をしたいの?」となる。
判断が働いてしまうのだ。
ここが、感性の不思議なところであり、何かしらの分かれ道だ。

先日、クラシックバレエの吉田都さんの引退へのドキュメンタリーを見た。
リハーサル風景を見ていて、「バレエ」が見えた。
さすが、としか言いようがない。
つまり、技術も見えなければ、自意識も見えない、振り付けも見えない、ただあるのは「バレエ」だった。
都さん全身が「バレエ」だったのだ。
その一瞬を見た幸福感は、何にも変えがたいものだ。
頭の中は真っ白のまま、時間は止まってしまった。
それが表現だ。

■ワークショップのお知らせ
 東京11月28,29,30日12月1日
 東京・岡山・沖縄

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