取り合いということを
道場を建てている時に気付いた事がある。
構造物、つまり、柱や梁を組み立てている時はさほど気にはならなかったが、壁や窓など平面を作り出した時だ。
一つの部屋が大体仕上がり隣の部屋に移り、作業を始める。
そうすると、隣の部屋と出来上がった部屋との接合部、いわゆる取り合いだ。
そこでハタと行き詰まった。
取り合いのことを何一つ考えていなかったのだ。
もちろん、建築士や大工さんなら設計図やパースが出来上がっている時点で、計算しているだろうが、何しろ素人だからそこに頭が回らなかった。
これは、音楽をやっている時に違和感として持っていたものだ。
テーマがありアドリブに入る、あるいはアドリブを人に渡す。
また、テーマに戻る。
そういった繰り返しなのだが、どうしてもテーマからアドリブへの移行に違和感を覚えていたのだ。
もちろん、未熟な私の演奏からではなく、ジャズのレコードを聴いていて感じていたものだ。
それは、クラシック音楽でも同様だ。
例えば、第一楽章から第2楽章、テーマからその展開、とにかく、受け渡しに違和感を持っていた。
この違和感について、音楽大学の学生たちと延々と議論をしたこともある。
それは、ダンスに関わるようになり、余計に際立ってきた。
武道での型も同じだ。
一時期、同じ型を延々と繰り返し練習をしたことがある。
そこで、自然と発見できたのが「流れ」だ。
この流れの中身は相当深いものだと、年月を経て分かってきた。
もちろん、それは建築物の取り合いという固定化されたものではなく、人という感性を持つ生身だからだ。
だが、昨日書いた仕事ということでは、鏡を取り付ける人が、その取り合いとしての鏡と壁の間に必要な部材を使っていなかった、だから、鏡が歪んで見えるのだ。
異質なものを組み合わせる取り合い。
日常として言えば、挨拶も取り合いになる。
ここさえ抑えておけば、そこからの繋がりはスムーズに行く。
どんなことでも、ここが大事だと気付いたのだ。
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