信じるという働き
「信じる」という言葉ではなく、そんな「働き」を人は起こす。
理由はない、何とはなく、分からないけど、という言葉が付いてくる状態だ。
言葉化すれば直感的に、かもしれない。
「信じる」という言葉に出てしまったものは、この働きではなく「判断」が働いているものだ。
この違いはあるのかと、色々と体験を思い出してみる。
そうすると、どうも違いがあるように思う。
それを単純化していうと、判断を通して「信じる」にはそれが違った場合「裏切られた」「信じられない」という、感情が起こる。
しかし、言葉がない場合には、そんな感情や「違った」という結果はない。
そんな事を考えて見ると、もしかしたらこの言葉の無い働きは、動物にもあるのではないかと考える。
そうすると、その言葉の無い働きは、生存や種の保存を根っ子に持つものではないかと推察出来る。
もちろん、こればかりは、検証のしようが無いので、どこまでいっても「かもしれない」だ。
しかし、その言葉ではない働きが働いた場合、身体に何かしらの影響がある。
それの分かり易い代表的なものが「偽薬効果・プラセボ」だ。
私が武道の稽古をしていて、今まで稽古も想像もしていなかったことを「やろう」と言い出す時がある。
この「やろう」の場合は、体験が無いからどんな結果になるかは分からない。
だから、とんでもない効果を出す。
しかし、判断が働いて「やろう」としてやった時、かなりの無理がある時が多い。
これは「出来なければどうしよう」というのが同時に働いていることを感じる。
だから、このかなりの無理というのは、腕力的な力を使ってしまうということだ。
この「やろう」と、言葉のない「信じる」は、同じ根っ子のような気がするのだ。
次は夏ギラギラの沖縄ワークショップ
沖縄ワークショップ8月10.11.12日