関係は、目に見えているのだが
前に書いたと思うが、今年の2月の沖縄ワークショップで、沖縄では初めて怒鳴った。
この現場をテーブルから見ていた人が「先生が怒り心頭しているのは、誰の目にも分かったのだが、誰がその矛先なのかが分からなかった」といっていた。
つまり、怒られている人は、自分が目の前のおっさんに怒鳴られているという事が分かっていなかった、だから、全く反応していなかったということだ。
その人は他人に対して人畜無害だと信じ切っていたのだろう。
いや、それ以外の人など存在しない、それすらも頭に無かったのだろう。
先程のカナダの鍼灸師の話ではないが、私は外国で外国の人と話すと、決まって周りの人からは通訳はいらないように見えるらしい。
それは、もっと前にアムステルダムでも言われた。
海外のダンスのワークショップでも言われた事がある。
噛み合っているように、周りからは見えているのだ。
この沖縄で私が怒ったのと正反対だ。
お互いに関わり合おうという意思があるから、そこに「関係が見え」まるで私が外国語を話すように見えてしまうのだ。
海外の武道のワークショップで注意するのもそこだ。「自分がやりたいようにやったら駄目、相手も反応するからね」だ。
だから、ワークでは相手の掛ける技で、「手を離せるようなら離せ、反対に投げれると思えば投げろ」という。
自分のやりたいことを、相手に押し付けること等実際には出来ないのだ。
相手は間違いなく嫌悪感を持つし、違和感を持つのだ。
そこに抜け落ちている「相手に不快感を持たせない」が、自分自身の行為として、あるいは会話として絶対に必要なのだ。
これは音楽でも同じだ。
「痛い音」というのがある。
「やかましい音」もある。
これらは、自分一人の部屋で、自分の主張だけを並べている人だ。
「誰かに」はないのだ。
同じように「声」もある。
「関係」は、観察すれば、誰にでも見えるものなのだ。
私と観客との「関係」、私と息子、そして観客の皆との「関係」。それらを体感して、日常を見直して欲しい。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ