全てを疑えは
天邪鬼転じて「全てを疑え」という考え方を持てた。
もちろん、その「全てを」というのは、自分自身も含めての話だ。
例えば、道場で稽古をする。そこで難しい技をする。
その場合、私は道場に来る人達の先生という立場だ。
だから、無意識的に「先生と生徒」あるいは「師匠と弟子」という関係性が出来ているという事だ。
つまり、生徒や弟子側には、暗黙の内の気遣いが芽生えているという事だ。
もちろん、稽古はそこを通り越すように注意はしている。
しかし、どこまでいっても関係性が消える事はない。
だから、その関係性が悪い、間違っているということではない。
そこをしっかりと抑えておかなければ、知らない間に自分自身が裸の王様になっているからだ。
例えば、人から褒められるとする。
私は、「その人は、私のことをそう感じてくれただけ」と解釈している。
つまり、その人が褒めたことと、私とは一切関係がありません、という立場だ。
関係があるのは、私の何がしかの行為や行動と、褒めた人がそれを見た、あるいは体感した何かであって、私そのものではないのだ。
ドラムを叩きまくる。それを見てくれた人、聞いてくれた人が「良かった」と言ってくれる。
それは単純に嬉しい。
がしかし、聞いて見た人が何らかの反応を示してくれた事が嬉しいのであって、ドラムの演奏が良かったから、と思うのではないという事だ。
「疑う」という考え方は、決してニヒリズムではない。
「疑う」からこそ、探求の姿勢を持つ事が出来るのだ。
「ほんまかいな」「それは違うやろ」私にとっては宝の言葉なのだ。
私は時代に迎合しないししたくない。
時代を超えたいだけだ。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ