お互い様という言い回し

人生で大事なのは「関係」だが、これは日本では「お互い様」という言い回しで、子供の頃から躾られている。
子供がどれだけ騒いでも、近所の人は文句を言わない。
「お互い様」だからだ。
今のようなクレーマーと言われる人は、多分私の子供の頃にはいたかもしらないが、ごくごく少数で「変わった人」という認識だったと思う。

その「お互い様」が人生で一番大事なことだとは、子供の頃には分からない。
しかし、大人になり人間関係のことでいざこざがあった時、「そういえば」ということでその言葉を思い出し、改めて考えてみる事が出来た。
そのことで「まぁ、ええか」と、問題そのものは片付かないが、心理的気持ち的なものの整理がついた。
だから、気持ちに余裕ができ、その問題を「まぁええか」ということで片付ける事が出来た。

そこを考えると、子供の頃には、その時理解できなくても良いから、より本質的なことを伝えるのが教育だ。
それが物事を自分で考えるという事の入り口になるからだ。
つまり、明らかな答えのない事や、答えのある事でも、答えが大事なのではなく、答えに辿り着く過程が大事なのだ。

何時も書いているように、過程だけが自分自身の力を鍛える時間であり世界だからだ。
そこで何が養われるのかというと、「感覚」だ。
閃きという感覚、直感という感覚だ。

手に負えない問題でも、誰かに相談するのではなく、自分の力で考えるのだ。
もちろん、手に負えない事柄なのだから、それでパンクするかもしれない。
しかし、そこを我慢し、尚も考えるのだ。
そうすれば閃きが生まれることもあるし、問題を回避する事もできる。

そこに必要なのは体力だ。体力が無ければ、直ぐに諦めてしまう。
だから挫折という事になるのだ。

現代の社会、世間においては、どんどんその感覚が削り取られる仕組みになっている。
技術の進歩というのは、そういうものなのだ。
また、メディアが流す情報を鵜呑みにするから、それも感覚を鈍らせる原因でもあるのだ。
だから、その事と、自分の進歩は切り離して考え無ければ駄目なのだ。

思えは、私の口癖の「なんでやねん」が、今になって思えば、こういった感覚を鈍らせる原因から、私を遠ざけたという事になっている。
この「なんでやねん」は、「本当か」という事と、「どうしてそうなのか」「本質的な事か」というような中身を持っているのだ。
「○○の絵は素晴らしい!」「なんでやねん!」だ。

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