誰にでも出来る?あほか
今回の熊野の道場修理は、寒さを除けば天候に恵まれ、予定通りに進むことが出来た。
ドラムヘッドも張り替えたので、気分も新たにドラムに向かえている。
ドラムを演奏するのは、ある意味では簡単な事だ。
いわゆる演奏する技術を覚えれば、それこそ誰にでも出来る。
動画サイトを見ていると子供たちが、上手にドラムを演奏する姿をいくらでも目にする。
このレベルが「誰にでも出来る」だ。
しかし、この「誰にでも出来る」という言葉が曲者なのだ。
もしも、誰にでもでも出来ることであれば、どうして自分がそれをやる必要、あるいは取り組む必要があるというのだ。
もっと言えば、誰にでも出来るのだから、余程簡単なのだろう、という事だ。
世には、色々なセミナーで「誰にでも出来る」をキャッチにしているものが多い。
余程多くの人は頭が悪い、あるいは、物事を考えないと思われているのか、と思う。
ドラムが誰にでも出来るとしても、そこそこの時間がかかるだろう事は、それこそ小さな子供でも分かる。
それは、明らかに誰の目にも「出来る・出来ない」が見えるからだ。
しかし、明らかに見えないジャンルでは、この「誰にでも出来る」で引っかかる人が多いのだ。
もちろん、引っかかるのではなく「誰にでも出来る」を信じているのだろう。
ほんと平和な人が多いことか。