耳障りのよい言葉に実体はない

世の中を見渡していると、耳障りの良い言葉が溢れている。
商品に対して、あるいは、学ぶものに対して付けられている、いわゆるキャッチコピー的な言葉だ。

耳障りが良いというのは、ある意味で「その気になれる」ということだろうと思う。
だから、耳からの癒し効果があるのかもしれない、とも思う。
耳障りの良い言葉はイメージを持ちやすい。
だから、その言葉に惹かれるのだろうと思う。

しかし、耳障りの良い言葉というのは、どこまでいっても耳障りの良い言葉であって、実体が存在しないということだ。
だから、「誰でも」その気になれたりイメージを持ちやすい、つまり、空想に実体があるということだ。

武道の実際に対して「誰でも出来る」とあればどうだろう?
誰にでも出来る筈はない、と思わないのだろうか?
もちろん、身体を動かしたり、仮の組手をするくらいは、もしかしたら誰にでも出来るだろう。
私の道場でも、そのレベルで運動として楽しんでいる人はいる。
そのことと武道とは何の関係もない。
道着を着て「その気になれる」という点では間違いない。
ただ、やっていることを武道だと思われたら、それこそ「一体何を言うてるの」となる。
「そのような」であって、「それ」ではないからだ。
つまり、「その気効果」はあるから、それを求める人にはそれで良いが、それ以上、つまり、本当に「武道」と言うことになるとその心構えでは無理だ。

声を出せる、みんなから良い声だと言われる、歌がうまいと言うことと、声楽のプロとは全く違うレベルのこと、と言うのと同じだ。
そこの分かれ道を分からない人が、「その気」だけの人の中に沢山いる。
友達の肩が凝っているのを揉みほぐすのが上手、その程度の人が治療家を名乗っているのだ。
私としては????とならざるを得ない。

世の中どうなっているの?だ。
では、世の中というのは何だ?
と言うことを考えさせてくれるから、こういった状況も私にとっては良いのかもしれないが。

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