自分を注意していないと
以前も書いたことだが、武道の演武というか、やっていることの検証を常にする。
その時、例えば、腕の力で押すと相手はビクともしない。
しかし、体重を移動させると相手は崩れる、という、日野武道研究所の基本的な稽古がある。
最初は、受けを取る人、つまり、技をかける人の腕を掴む側の腕の力が弱ければ出来ない。
単純には、男性が技をかけ、女性が受けを取るのは稽古として難しいのだ。
また、身体のどこかが緩む人では、検証が出来ない。
というのは、技を仕掛ける人が、腕に力を入れて押しているのか、体重の移動なのかを判断出来ないからだ。
もちろん、それは「見たら分かる」のだが、それは腕力を使ったら身体はこう変化する、体重を移動させれば身体はこう変化する、ということを知らなければ「分からない」。
そんな状態で、いくら稽古を積んでも、稽古にはならない。
それは、「何をして、何を検証しているのか」を、全く分かっていないからだ。
その事よりも、現象として「相手が崩れる」という事ばかりに注意が向いているからだ。
また、その事を理解出来ない人とは稽古は出来ない。
武道の稽古の難しいところだ。
そして、もう一つ根底にあるのは、先生と生徒、あるいは弟子という関係。
弟子同士という関係。
そんな事も知らず知らずの内に影響してしまうからだ。
いわば、集団催眠術的効果が現れてしまうからだ。
ジャズドラマーのボーヤ時代、バップの難しい曲があった。
滅多やたらとシンコペーションが続くのだ。
これを初見でというのは無理な時代だ。
だから、メトロノームを横に置き練習をする。
出来上がってくると、ピアノやベースを入れて練習をする。
検証だ。
次第にその3人はピッタリ来るようになる。
で、改めてバンドマスターや、他のホーンセクションの人達とやる。
そうすると、先ほどの私を含めた3人だけが、狂っているのだ。
「どうしてだ?」
その時は、3人で同時に間違っていたのだ。
「こうだ」と思い込んでしまっていたのだ。
人には、こう言った事が日常的に起こっている。
だから、余程自分自身を注意しておかなければ、結局はやろうとしていることを、全くやっていないという事に成りかねないという事だ。