公平な目を持つ

比較することと、比較してはいけないこと、この両方を持っていることが、健全に自分を進化・成長させることに繋がる。

世の中は「比較してはいけない」一辺倒で、それは学校教育の場でもそれだ。
もし比較してはいけないのなら、「競技・競争」という比較する典型的なスポーツ競技の形式を排除しなければならない。
多分、それは「別のもの」だと、例外扱いするのだろう。

その、それこそダブルスタンダードという形式を持つから、矛盾を生み出すのだ。
その意味でも、両方が必要だ、という考え方を持っていなければ駄目なのだ。
ここに差別という、全く別の概念を被せるから、話は面倒になる。
差別も同じで、差別することと、差別をしてはいけない、出来ない事があるのだ。

これらは、教育や躾の中で培う事が出来る。
だから、教育が成熟していなければいけないのだ。
そこに危機感を持つ人たちは、きっとあちらこちらで、実験的な教育を行っている事だろう。

詰め込み教育は駄目だとなると、猫も杓子もそこを否定する。
単純に、掛け算の九九を詰め込まれたから、何歳になってもそれがスラスラ出るし、使えるのだ。
と同じように、詰め込みも必要だ。

どうして、単純に、どちらかになってしまうのだろう?
もちろん、それも教育の結果であり、社会の風潮の表れだ。
基本は「公平な目」を持つという事だ。

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