全部、対等にしろ
幼児期、お母さんが誰かと話をしていたら、やたらとまとわりつく。
いわゆる「かまって欲しい」時期だ。
それは疎外感を持つのか、あるいは、嫉妬の芽生えか、まっそんなことはどうでもよいが、そんな時期を経過して成長していく。
しかし、この「かまって欲しい」が大人になっても脱皮できていない人もいる。
もちろん、幼児期のそれと同じで自覚はない。
こういう大人は厄介だ。
しかし、ここに面白い言葉とリンクするのではないかと気づいた。
それは「受け入れてもらいたい」という言葉だ。
これは角度を変えれば「かまって欲しい」になるのではないか、ということだ。
こういう大人の厄介なところは、全く場を分からない、理解できない、感じ取れないところだ。
その人が、場にいるだけで空気が悪くなる、ということを感知出来ないことだ。
その人の根底には「私はこうしたい」だけしかないことだ。
私はこうしたいは、こうする為に何が必要かを考える力、そして行動力のある人のものであって、こうしたい、と思うだけの人のものではない。
「私はこうしたい」だけしかなく、更に「かまって欲しい」もあるから、その人がいると、どんどん場が腐っていく。
当然だ。
その人はその場で何をしたいのかが、誰にも全く見えてこないからだ。
「何の為にその場にいるのか」だ。
世間のおかしいところは、この「受け入れて貰いたい」だけを優先するところだ。
その逆の「お前を受け入れたくない」もどうして対等に扱わないのかだ。
「お前をかまいたくない」は、冷たい、あるいは「いじめ」だと世間は言うのだ。
その風潮を優先する限り、「かまってほしい」という幼児性から脱皮していない人は、永久に脱皮できないのだ。
つまり、善意の第三者という世間が、その人を壊しているのだとどうして気付かないのか、だ。
常に対岸の火事状態の世間、そこでしか生きていない人の言葉など聞く必要もないのだが。