永遠の課題「何を?」
何を見ているのか、何を聞いているのか、「何を」を何時も振り返る。
ジャズを聴く。
リズム、メロディー、ノリ等々。
もちろん、音楽と定義されたものの要素はそれらだ。
だからと言って、それを聴いているのではない。
その総体だろう。
あるいは、その総体に自分自身の思いや想い出を重ねているのかもしれない。
あるいは、それらは、その総体から想起されたのかもしれない。
こうなると、鶏と卵の関係になる。
リズムです、メロディですという分けられたものを聴いているのではない事は確かだ。
もちろん、リズムだけを切り取ったり、メロディだけを切り取って聴く場合もある。
この「何を」は、もう40年以上振り返っている。
しかし、一向に結論らしきものは見えてこない。
多分、音楽を聴いているのだろうが、その音楽に変わる言葉が浮かんで来ない限り、この探求は終わらないのだろう。
「何を」触っているのだろうか。
これも重要な問題だ。
こうしてmacに向かいキーボードを打つ。
この場合は、キーボードを触っている。
しかし、その行為はそんなレッテルでは解決出来ない。
例えば、特定のキーを打つのは、打ちたい言葉があるからだ。
と考えて行くと、単純に見えることも途方もない深さを持っている事に気づく。
それで頭が混乱する。
混乱するから整理をする。
そんな繰り返しが、頭を回転させるのだろう。