生身のわたしを
しかし、大声を出す稽古をしても、その時に大声は出ない。
それは「咄嗟」ではないからだ。
稽古では、感情から湧き上がる「声」ではなく、稽古や訓練では「音としての声」にしかならないからだ。
そうすると「感情のような」設定をした声を稽古することになる。
いわゆる「くさい」になっていくのだ。
この辺りが、くさい役者が出来上がる元だ。
つまり、日頃から「感情→声」という生き方をしていなかったら、いきなり生身の「わたし」に晒された時、残念ながら生身の私は育っていないので、対処できないということだ。
例えば、本音と建前という区別があるなら、建前という世界の中では、建前だけで生活出来る。
しかし、同時に生身のわたしに、どんどん蓋を被せていっているということだ。
だから「咄嗟」には、何も出来ないという状態になるということだ。
「生きている」というのは、当たり前のことだし、考えるまでもないことだ。
しかし、それは生きているという現象のことであって、その現象をわたしは生きているのか、となると、これは別の問題だ。