すれ違うのは

昨日、神田道場で初の東京ワークショップを終えた。
前に書いたように、実際の広さは何時ものスタジオよりも10㎡ほど狭いのに、何故か狭く感じない。
むしろ広く感じる程だ。
常連の人達も、「いつものスタジオよりも狭いよ」と答えると「うそ〜」と驚く。
そして、初めての人達が多いのに、何故か雰囲気良くワークに取り組んででいる。
そんなことが空間の不思議、場の不思議なのだろうと思う。
一人の常連さんは「熊野の道場に近い良い雰囲気です」と言っていた。

雰囲気が良いと、一つのワークへの取り組みが集中され、不思議とあまり煮詰まらないのだ。だから、予定している次のワークへの進行を止めることになる。
もちろん、その方が良いに決まっている。
ワークに対する、何かしらの取り組むキッカケを掴むからだ。

ワークの目的は「身体を知る」だ。
しかし、その「知る」は、例えば、知識を「知る」ことではない。
自分自身の身体を通して「知る」ことだ。
だから、その知るは「感覚」を動員する。
例えば、氷が「冷たい」というようなものだ。

そこには説明の言葉が一切入らない。
氷に触れて「冷たい」という感覚が、氷に触れている手や身体そのものを支配したようなもので、後付けとして説明はあるだろうが、その瞬間には言葉はない。

知ることの次は、知ったことで身体のその部分、例えば「肘」を「使う」ということになる。

こういったことは年齢にかかわらず話がすれ違っていく事が多い。
すれ違う多くの場合は「〜の為にするのか」「〜のようなことか」という具合に、問題そのものが自分自身の体感覚のことなのに、客観的なことにすり替わる思考をしているからだ。
ここを話し出すと埒が明かない。
で、即切り上げる。
「自分のことだから、考えて下さい」ということになる。

1から10まで、こちらからの説明を待っている。
しかし、本来は、自分が興味を持ってワークショップに参加している、という事がある。
であれば、こちらに説明を求めるのではなく、自分が自分の興味をベースに考える必要がある。
どうして、そこが抜けてしまうのかさっぱり分からない。

例えば、自分が野球に興味があり、その教室に参加した。
そこでバットでボールを捕らえた時、手にこんな感触があります、それを実感して下さい。
と指示をだしているのと同じなのだが。

次回東京ワークショップは11月29.30、12月1.2日(木.金.土.日)を予定しています

Follow me!