まず、自分の役に立て
「他人の役に立ちたい」そういった動機で医療の世界、介護の世界、あるいは看護の世界に入る人は沢山いる。
素晴らしい動機だ。
そして、きっと気持ちが優しい人なのだろう。
あるいは、何もやることがなくて、とりあえず福祉の世界に入ろうか、と思う人もいるだろう。
その意味で、動機は千差万別・玉石混交だ。
それこそどんな動機を持っていようが自由だ。
専門学校や大学生活の内は良い。
しかし、それが実際の仕事になると、この差は患者さんや利用者さんに跳ね返るということを分かっているのだろうか。
稀に、施設でお年寄りが虐待され怪我を負ったり、死亡するという事件もある。
これが差の一つの現れだ。
とはいっても「他人の役に立ちたい」と思ってその世界に入った人は、こういった事件を起こさないとは限らない。
私が知的障碍者の作業所と関わっていた時、そこの施設長や一部の職員と話していて気づいた事がある。
それは、障害を持つ人に対する「同情」という差別意識を持つことで、施設長達が優位な立場にいると無意識的に思っていたことだ。
これには驚いた。
障害を持つ人と関わることで「癒される」ともいうのだ。
私にはそういった意識の持ち方は宇宙人のようにしか思えなかった。
が、時々、専門学校の学生や、専門大学の学生が研修ということで、施設に来ることがあった。
その学生たちを見ていると、入所している人と何が違うのかが、全く分からなかった。
施設に入るのはお前らやろ!
だったのにも驚かされた。
こんな人たちは、何を思ってその世界に入ろうと思ったのか、聞いてみたいと思ったものだ。
しかし、もし質問したなら「他人の役に立ちたくて」と返ってくるだろう。
この場合の、彼らの実際と役に立っているのは、専門学校や専門大学からの研修を受け入れることで、その施設に何がしかの金銭が入るだろうから、その事では確かに約にたっている。
また、それぞれの学校には入学金を含め、相当の金額が入る。
これもその事では、間違いなく役に立っている。
その程度の「他人の役に立つ」だ。
ということを分かっているのか?だ。
というよりも、そんなことを考えたこと、考えるところに至らなくても頭をかすめた事があるのか?だ。
「他人の役に立つ」という金科玉条の如く言葉は、何の免罪符ににもならないのだ。
「他人の役に立ちたい」とすれば、福祉や医療でなくてもいくらでもある。
しかし、その世界を選んで入ってくる。
その世界も舐められたものだ。
「他人の役にたちたい」とする前に、「自分の役に立つこと」をやっているのか、やってきたのかを問う必要がある。
自分自身の役にも立てない自分が他人の役に立つ筈もないのだ。
もちろん、「他人の役に立つ」事ほど高級なことはないからだ。
という設定を持っていない事が、舐められた世界になっている原因の一つでもある。
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